二人三脚のローカルページ V2
 
 私達の故郷 八尾市久宝寺を紹介します。
 

 八尾は、歴史ロマンあふれる処です。
点在する遺跡から、弥生中期の土器が発見され市の東、高安山の麓には有力豪族達の古墳が
群集している様が見られます。

大和朝廷後期、物部守屋と蘇我馬子・聖徳太子の連合軍が覇権を争い激しく戦った所もここ
八尾であります。
JR八尾駅とJR久宝寺の間南側(地図上では下側) 太子堂・勝軍寺・渋川・衣摺に史跡が散見
されます、叉聖徳太子の母堂の生家や有名な?弓削道鏡所縁の弓削もここ八尾にあります。
八尾は、奈良飛鳥から大阪湾 ”難波宮”を結ぶ街道 奈良街道・十三街道の重要な地であつた
事が伺い知れます。


近世に入り壬申の乱・南北朝の争い・応仁の乱等、幾たびの戦火にも巻き込まれています。
豊臣氏が滅んだ大阪夏の陣では、豊臣方の長宗我部軍と徳川方の藤堂軍が激突したのが
常光寺周辺でありました。
私達の母校”久宝寺小学校”の直ぐ傍に 長宗我部盛親公 ”物見の松”の記念碑が立てられて
いました、子供心に何故こんな所にと疑問を感じていましたが数百メートル先に小さな長瀬川が
あり300年程前は、大和川の本流が流れ川幅も 2百〜3百メートルあつたと云われておりおそらく
土手であったであろうこの場所の、松に登り対岸から寄せてくる藤堂軍の様子を見たものと推測
されます。

因みに、大和川についてですが現在の川は国分付近より西方に流れ堺市をへて大阪湾に
注いでいますが、300年前までは、国分付近から河内平野を北流し寝屋川に合流し、西に転じ
淀川と合流し大阪湾に注いでいた天井川でした。
この”古大和川”が八尾を横断していた本流の場所が現在の長瀬川の川筋となって残っています。
今では、見る影も無い”古大和川”ですが天井川故頻繁に洪水を引きおこし、そのため中勘兵衛翁
他により川筋付替え工事が行われて現在に至っております。


 さて、私達が生れた久宝寺について少し触れたいと思います。
久宝寺の由来は、聖徳太子建立の久宝寺(廃寺)だと云われています。
この久宝寺、戦国時代に浄土宗寺院を中心に建てられた”寺内町”として発達してきました、寺内町と
しては歴史は古く近畿地方では最も早く出来たと云われております、その中心が現在の”顕証寺”で
ありました。
顕証寺は、真宗西本願寺別院で連枝の格式をもつ立派なお寺です、私や仲間の遊び場の一つで
よく悪戯をしたものです、まあ罰も当らず今日までこられたのは親鸞聖人の「悪人をもて往生とぐ、
いわんや・」のお陰でしょうか?。
その当時はお寺全体が寂れていたような記憶があります、お寺の周囲の土塀(内が人が通れる)の
崩れた所より出入りしチヤンバラごっこをしたり、お寺の左側に残っていた土塁で鬼ごっこをしたり、
縁台で昼寝したり楽しい思い出が一杯あります。


その当時の思い出として今でも鮮明に思い出されるものとして、”お逮夜市”があります。
久宝寺御坊さん(顕証寺)から八尾御坊さん(大信寺)にいたる沿道に物凄い数の露店が並びお祭り
以上の人が犇きそれはそれは賑やかな光景でありました、様々な日常の品物が商われていたので
しょうが子供の私にとっては、人びとのお尻と足の間から観る 鋸を売るおじさんの手さばきや口上、
焼餅を売るおばさんの団扇捌きや焼ける匂いに興奮したものです、おそらく何時までもあの情景は
忘れないと思います。

叉、夏祭りにはこの沿道に布団太鼓が「ドン・ドデドン・ドデ・ドン・・・・」と勇壮な太鼓を響かせ練り歩き
ます、泉南地区のダンジリや東京下町の神輿とまた違った趣ある河内然としたもので好いものですよ。


私達の故郷、八尾久宝寺は太陽は山の向こう側から昇り大阪湾の方向に沈みます。
小学校3年の頃でしたか、顕証寺裏の 許麻神社外れより左に山を見て田んぼの畦道を当て所なく
歩き、鉄道を超え右に山を見つつ戻ってくる冒険を何回もした事があります、回を重ね到達距離が
広がっていく喜びは何物にもかえがたいものでした、叉山を右に見つつ長瀬川沿いに歩き 左に山を
見て戻る この少年期が今の私の人格の元になっているのではとこの文を考えながらふと思いつき
ました。


この様な私達の故郷 ”八尾” を、私達二人の善き先輩である田井一男氏の作品をお借りしまして
紹介させていただきます。
この試みに快くお受けくださった作者 田井一男氏、及びデーターを提供していただいた、彩美社
奥田明美氏にこの場をお借りしましてお礼申し上げます。
 
 
 
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